骸骨左 白骨の お文
(はっこつの おふみ)  蓮如
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それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに・おほよそ、はかなきものはこの世の始中終。まぼろしのごとくなる一期なり・さればいまだ萬歳の人身をうけたりといふ事をきかず・一生すぎやすし・いまにいたりてたれか百年の形躰をたもつべきや・我やさき、人やさき・けふともしらずあすともしらず・をくれさきだつ人は・もとのしづくすゑの露よりもしげしといえり・されば朝には紅顔ありて・夕には白骨となれる身なり・すでに無常のきたりぬれば・すなはちふたつのまなこたちまちにとぢ・ひとつのいきながくたえぬれば・紅顔むなしく變じて・桃李のよそほいをうしなひぬるときは・六親眷屬あつまりてなげきかなしめども・更にその甲斐あるべからず・さてしもあるべき事ならねばとて・野外にをくりて夜半のけむりとなしぬれば・ただ白骨のみぞのこれり・あはれといふも中々おろかなり・されば人間のはかなき事は・老少不定のさかいなれば・たれの人もはやく後生の一大事を心かけて・阿彌陀佛をふかくたのみまいらせて。念佛まうすべきものなり・・・・あなかしこ・・あなかしこ・・・南無阿彌陀佛・・南無阿彌陀佛・・・


 白骨のお文 現代語バージョン
 多くの偶然・奇跡が重なり、この地球上に180万種以上にもおよぶ生命が、毎日・毎日 誕生と、死を繰り返している。人間もその例外ではないのである。地球誕生46億年の営みからみれば、人の一生は、またたきの時間にも満たないのである。
 人間の生物学的遺伝情報(DNA)に刻まれた、寿命は40年あまり。世界一の長寿でも130歳。どんなに、どんなにあがいても、それ以上は、生きながらえる事はできないのである。

 人間の『死』というものは、年齢・性別・地位などによる序列・順番がある訳ではなくて、あなたが先か、私が先か、今日か、明日か、とうてい 人知の及ばないことなどである。
 木の根に したたる、朝露のしずく。葉の先よりしたたるしずくも、あっという間に、散り去っていってしまう。

 それ故に、はつらつな気持ちで朝起きても、もしかして、夕方には、息絶えて 白骨になってしまう身であるのかも知れません。
 もともと、我々の命は、無常の風が吹いて 死を迎えたならば、二度と 再び目(まなこ)を見開く事もなく、息も絶えてしまうのである。血色に満ちた顔も、色あせ。桃や すももの花のごとき 美しい肌も、変わり果て。急いで親族知人が集まって、嘆いてみても所詮は、どうする事もできないのである。

 いつまでも そのままにしておけないので、野辺に送り 荼毘にすれば、煙となって空中にたなびき、あとには白骨だけが、残るのである。
 それを 【あわれ】と 悲嘆にうちひしがれているだけならば、愚かな話です。
 だからこそ、人間の一生は、老いたる者が先で、若き者が後というような 順序の定めが ある訳でもない。この世に生を受けた瞬間、既に死出の旅に出発している誰しも避けがたい真実に気づき、人知を超えた大いなる働き、即ちその名 南無阿弥陀仏のお念仏をとなえましょう。