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 宗教専門紙『中外日報』の報道によれば、(2005年)5月20日に、本山に全国から、役職者等千人あまりを集めて御遠忌の「お待ち受け大会」が開催され、御遠忌テーマと法要日程が発表され、当日は、宗門関係校の学生や園児まで動員して宗門内外に御遠忌勤修を告示したと、報じられている。
 しかし、冷静に考えてみれば、経営母体が宗門であるが故に、その関連保育園や幼稚園、高校の児童や生徒を、平日に宗門の行事に動員する宗門の姿勢に、何ら疑問を持たないとしたら、大いに問題ではないかと、考えさせられた。小生も小学生の頃に、名古屋駅前の学校でしたので、天皇が巡幸され名古屋駅に立ち寄られた時などは、ホームで、菊のマークの付いた列車の窓にむかい、日の丸の小旗を持ち、振った経験があり。何で知らない関係のない人間に、小旗を振らなければならないのか?疑問に思った経験があります。某独裁国家の元首の誕生日に大きなグランドで、マスゲームをさせられているプロパガンダ映像と重なり、何か複雑な思いで、この記事を読んだのは、小生一人だけであったのだろうか?。児童の保護者などに、予め説明や同意を求めて、自由意志で、この「お待ち受け大会」に参加されておれば、大いに歓迎できる行事であったと思うが、是非、事の真意を、機会が有れば、関係者に聞いてみたい。

       心に響く言葉がない

 まあそれは、さておきその時に発表されたテーマ【今、いのちがあなたを生きている】に関連して、宗務総長の所信表明がなされ、即日、宗門のホーム・ページに掲載されていたので、早速ダウンロードして読んでみた。耳障りの良い語句が並んではいるが、言語明瞭、意味不明の印象が、拭いきれず、小生の浅学非才な力では、何が言いたいのか全く理解できなかった。なんら心に響く言葉が無い印象を受けたのである。前述の『中外日報』の記者がまとめた、要約では、「近代合理主義に根ざした現代日本の社会意識を批判。伝統仏教への関心の低下が指摘されるなか、青少年犯罪や家庭の崩壊といった問題を抱える現代社会では、むしろ真宗に期待される役割は大きいと述べた」と掲載されている。(中外日報第26746号)ただ本記者は続けて、「ただ、近代的理性に基づいた人権思想の行き過ぎが自我の執着を生み出し、真宗の信仰が切りすてられるとするヒューマニズム批判は、考察の余地も残っている」と記事を締めくくっている。

       安易な姿勢こそ問題

 まことに、あの難解な、総長の所信表明演説を、要領よくまとめていると感心した次第だが、小生が、この総長演説を読んで、思った事を述べれば、現今の宗教思想史の学説では、「親鸞聖人の時代、蓮如上人の時代、近世幕藩体制の時代それぞれの時代で、浄土教信仰(念仏信仰)に顕著な違いがある」とされている事でも明らかなように、いきなり親鸞聖人の人間観、言い換えれば、倫理観を、現代社会に、持ち込んできても、中世の時代と、現代では、社会的状況も大きく異なり、親鸞聖人の人間観の、尺度でのみ現代を見据える安易な姿勢こそ、既成仏教が批判され、現代人から無視されている、大きな要因ではないだろうか?
 総長の演説でも、現今の社会状況を、社会論と、別項目をもうけて、一応分析されてはいるのだが、そこには、テレビのワイドショーや週刊誌の見出し記事の類の語句・文言が、つぎはぎだらけで羅列されているにすぎない印象を受けた。現代社会の価値観についての、深い考察も分析も無く、ただ危機意識を煽(あお)る言葉しかないのは、残念でしかたがない。
 もはや現代は、価値観が非常に多様化・多元化している現実は、否めない。それは、イデオロギーを錦の御旗にしていた政党が、いまや陰が薄くなってしまつている現実が如実に表している。絶対的価値観が薄らぎ、原理・原則は、ほとんど崩壊してしまっているのが、現代ではないだろうか。人間としていかに、この世を生きる、人間のあり方が曖昧模糊になっている。だから、今こそ『本願念仏に生きた宗祖親鸞聖人』の人間観に立ち帰る。そう言う形としての論理構築・発想が、この価値観の多様化した、現代社会に、小生は、通用するとは絶対思わないのである。

 それを言えば言うほど、我が教団が反社会性の色彩を濃厚にし、自己保身性への傾斜を一層深めて行く印象を、一般社会に与えているのではなかろうか?

 元龍谷大学学長の信楽峻麿氏が、「最初から、抽象的・原理的な教条原理の一方的な押しつけ、謂わば先にイデオロギーや原理があって、それを教授して理解して真宗では、こう言う。他の宗旨ではこう言うのだと、何度となく聞かされても、現実の社会に直面する個人の悩みや苦しみの答えにはなっていない。こうした庶民の苦悩に対して、お念仏を学んだ、僧侶はどう答えてくれるのか?。それを求めている。本願念仏に出会った人が、本当に自分の主体をかけて消化し、人生化した人が、その現実との対応に、いかなる答えを出し、その解決の為に新たなエネルギーを与えてくれるのか?民衆は固唾をのんで見守っている」(「真宗興隆会会報」第1号)と、誠に含蓄のある提言をなされている。しかし、残念ながら、そうした警鐘は、我が宗門には、伝わっていないのが現状ではなかろうか、伝え聞くところの玉光氏解任問題に関する総長の姿勢が、如実にそれを示している。

    大衆は、振り向いてくれるだろうか?

 両堂修復も、無駄な事であるとは言わないが、しかし総長演説が、「真宗の人間観こそが、人類の普遍的な人間観」「本願の信が実現する願生道に立つことによって、同朋社会が顕現されんことを念じる」と、締めくくっている様に、そこには、前玉光教研所長が、「私たちが、心の問題という時、どういうわけか、それは個人的なものとなって社会性をもたない、心の問題である限り、個人で終結してしまう」(『真宗』2005年1月号)その言葉の重さが全く耳に届いていないのは、残念でしょうがない。言い換えれば、昔から「我が身のお浄土参りさえ整えれば、それでめでたし」と言う旧態依然の教学からの発想しか出来ない宗門の体質をかいま見る思いがするのである。

 盛大な御遠忌法要の日程規模を発表し、瓦懇志を集め、法要を勤修すれば、御遠忌円成めでたしでは、現代人は、我が教団に振り向きもしないと思う。多様な価値観を持つ現代人の多様な問題、言い換えれば、この社会に直面している問題に、真摯(しんし)に目を向け、問い提言をするなどの、社会的影響力を持たなければ、我が教団の未来は無いと思う。総長演説の「本願念仏に生きる」事が、現代社会にどのような意味を持つのか誰にでも解る言葉で、言わなければ、現代の真宗を語る事は、もはや出来ないのでは。
 高齢化社会、フリーターが、200万人以上、ニートと呼ばれる人々が統計上では50万人、実際には、その数倍はいると言われている現代の社会状況に、本願念仏の親鸞聖人の人間観を語るだけで、現代人は、我が宗門に振り向いてくれるでしょうか。そんな感想を持ったのである。
                      2005年6月13日
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