浄信寺HP当寺の歴史寺と税金 | 10年1日 | 愛犬の死

                     
 我が宗門(教団)は、親鸞聖人を宗祖とし、同朋社会の顕現・同朋会運動を一の柱にした社会に開かれた教団云々。いや小生が住職になり6年余り、幾度となく耳にした言葉であるのだが、小生は、いまだこの言葉を果たして、心の底から言う事ができない。およそ何か教区・教団の内部や実体を垣間見るにつけて、そのスローガンと裏腹な世界。魑魅魍魎たる形が目についてしかたがない。
 組制度1つにしても、6カ寺の組50カ寺で1つの組。そこから1人の組長議員を選出。1対10近い格差。これをもってしても、公平な制度とは言い難い。内部矛盾を解決する自助努力なくして、開かれた教団などとは、とても言えないのではないだろうか。自らの世界(教団)を改革せしめてこそ、一般社会常識の通じる姿にしてこそ、社会に対して改めて、開かれた教団云々と、声を大きくして問えるのでは。自信をもって、同朋社会の顕現云々と言う方々の、精神構造はいったいどうなっているのか疑わざるを得ないのだが。

 真宗学や、経典の解説の本を余り多くではないのだが、読んでみたいと思い、書庫から出して、見てみるのだが、辛抱して数頁も読み進まないうちに、何が書いてあるのか、たしかに誌面いっぱいに活字は印刷されているのだが、とんと理解できなくなって、三日坊主ならず、読むのを諦めてしまう。読み手の小生の知識と能力が無いのか?はたまた他人には理解できない事に、真宗学などの特質があるのか?。小生にはわからない。そもそも真宗学とは、どんな学問領域を言っているのかさえ、理解できないのである。歴史上の一人物としての親鸞の思想や宗教観を見極める学問であるのならば、ちょうど今世紀敦煌から厖大な資料が発見され、『敦煌学』なる一つの学問領域ができたように、『親鸞学』と言ってもよさそうなのだが、そんな語彙は聞いた事がない。教団としての根本理念・依って立つ基盤を明らかにする学問とするならば、某カルト宗教集団などのまさに、現在の宗教的諸問題にたいして、何ら研究成果や提言を、世に提示していないのは、何故なのか?。宗門の若い僧侶の、指針や方向を明確に位置づける学問なのか?考えれば考えるほど、思考のループに陥り分からなくなってしまうのである。

 住職に就任して、6年ほどになります、単なる感想批判をするつもりはないのだが、個々の問題点を1つづつ指摘する地道な活動をもってこそ又新しい時流が来ると、小生は信じている。先ほど、真宗僧侶の論理構想はいったいいかがなものか?と疑問を提示しましたが。1つの事例をあげてみたい。

 今年の新年に各末寺や教区の門徒さん方に、『名古屋御坊』(月1回発行)なる新聞が郵送されてきます。その中で、別院輪番の「年頭の挨拶」が掲載されてました。
 主旨は、今世紀は、革命と戦争の世紀であり、今こそ自ら生きる指針をしっかりと見出し。またまた四月の御遠忌を縁に上人の教えに学び、ご遠忌の円成を願い云々とある。

 どこかで読んだ文章(論旨)ではないかと思い、手元の資料を見てみました。この輪番の年頭の挨拶。大谷派から出している。『現代の聖典』。『真宗』2000年1月号宗務総長の年頭の辞。『真宗』1998年1月号の宗務総長年頭の辞。等々よく似た論旨構成の文章があるはあるは、これはいかに、まあ宗教教団の特質なのか、同じ事を100篇繰り返せば、それは真実となると言った、第二次世界大戦ドイツの将軍がいたが、まさかそうではあるまい。
 一般社会で、ワンパタンの論旨の展開や主旨を真似して、公にすればこれは何だ又か。そして軽蔑と見識を疑うそんな意見がわんさわんさと来るのではないだろうか?

 概ねこうした論旨の展開のパタンは、導入部で、今世紀の社会的状況を引用事例は異なるのだが、まず悲惨な戦争と革命の世紀である。それを強調して、今こそ人間の生き方が問われる時代はない、これが、導入部に対して導き出された中間的結論。そこからいきなり、親鸞聖人や蓮如上人の言葉などが引用されて、結論が導き出されていいるのだが。ほんとうは結論を出している訳ではなく。おのうの自らの問題として問い直し、間近の宗門の行事やイベントの成功を願う。そんな展開である。言い換えれば現実の世界の分析論からいきなり、観念や理念の問題に飛躍して論旨がすり替えられ最後には、教理・教義の説明になっている。詳しく調べた訳ではないのだが、おそらく同じパタンが何十年も言い続けてきたに違いない。

 そこには、残念ながら、書き手の人間としての心からの発する言葉、誠意・メッセージが何一つ伝わって来ないのである。その結果は、どうなのか?相変わらず、教団・教区の問題は何一つ新しい展開を見ず、なんとなく行事やイベントを成就したら、気が抜けて、それなりの充足感を感じてまた、次のご遠忌なりが、話題の俎上(そじょう)に載せられ、文句を言いながら、せっせと懇志集めに奔走するのである。そんな空虚感を覚えるのは、小生だけだのか?。

 単純な疑問として、今世紀は、戦争と革命の歴史であったかも知れない。されど同時に科学文明の世紀であった。自坊の古い過去帳を見てみると、生まれて間もない子供が、おそらく今日では命を落とす事はないのではないかと、思われる死因で亡くなった事例は枚挙に遑(いとま)がない。少なくとも前世紀以前の様に、一つの地域や国の大部分の人々が、疫病や病で悲惨な結果を生むと言った状況だけは避けるべき方策と手段を人類は手にした事は間違いないのである。
 資本主義社会の歪みや、人間性喪失の社会と言った指摘も全く間違いであるとは言わないが、同時に人類はそうした事に対して、何もしなかった訳でもない、地道ではあるが、それなりの努力をしてきた事も事実である。排気ガス公害をまき散らすから、車で月参りや法務をしない訳にはにいかないのが、現実の姿なのである。
 日本に原爆投下を目的にアメリカが原爆の開発の急務に迫られコンピュターを作り出した。今では、我々の日常生活のほぼ全てに、あの2000年問題の事例でも明らかなように、コンピュターの恩恵を受ける事なく暮らせない。そしてそれは革命と戦争の世紀による一つの副産物であった事も事実である。

 こうした事例は、何一つ引用されず、極めて短絡的に、あたかも、戦後間もない頃、連合国の戦闘機などが墜落すると、その原因は、日米安保体制にあると、叫んだ某政党の論理構築に極めて類似していると思うのは、小生だけなのか?。

 自らの論旨の補完強調引用のために、いたずらに危機意識・悲壮感を強調するだけではなくて、そうした現実問題ににたいして、現実的に宗門・宗教人がいかに答える事ができるのか?。それを示すべきではなかろうか?。コソボやチチエンなどの紛争の国々の人々に、『真宗聖典』で紛争が収束できるとは、小生は思わない。

 宗門指導者の口から、せめて今世紀は、戦争と革命の世紀であったが、同時にまた人類の生活向上に努力をした世紀でもあった。多くの救われない命が救われた世紀でもあった。その人類の共有する、人間としての慧智・智慧・愛を、縁あって真宗教団に身を置く者として、いたずらに危機感に畏縮する事なく、信じあえる世界のために、21世紀の新しい世紀の教団へ命がけの歩を踏み出す。そのために本年は、かかるこの諸課題・問題点について具体的な事を行う云々等・・・・そんな提案や決意表明の年頭の辞の声が聞こえてこないのかな?(平成12年3月10日稿)
            
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