浄信寺HP | 当寺の歴史 | 寺と税金10年1日 | 愛犬の死

                                 
浄信寺は、名古屋駅東1キロ堀川と、名古屋都市高速道路の名駅出口の交わったところにある。回りをオフスビルに囲まている。昔は、堀川の水運盛んなりし頃には、堀川の両側には、蔵が建ち並び、名古屋城近くの富豪の商家が軒を並べていた。その蔵も、壊され駐車場やマンションに立て替えられてしまた。
 しかし、まだ浄信寺の隣りは、氏神さんとしての新明神社の緑の木々があり、小さな路地や、昔ながらの木造の民家が残っており、往時の姿を僅かに知ることができる。

 浄信寺も、幾多の火災などで、詳しい資料や記録も失われ、かろうじて代々の住職によって守り伝えられた創建当時からの過去帳七冊だけが残されている。

 その過去帳の第一号の背表紙には『寛永十二年十月二日 建之 法名釋利賢』とある。この記述は、『尾張志』にも記述されている。又『尾張名陽図絵 巻之七』には、「寛文8年(1668)開基利海」とあり、開基の年代も30年ほどの違いもあり、また開基を利賢。利海とそれぞれ異なる名で記述しているのだが、文化十一年に書かれた淨信寺の覚え書きには、開基利賢とあるので、開基を利賢とするのが妥当であろう。

 その後、成岩無量寿寺の末寺となり、浄土真宗となった事だけは確かである。そして『尾張志』にある地蔵の伝承も、今も浄信寺本堂の余間には、秘仏として、小さな地蔵菩薩が安置され、今に至っているのである。

 多くの寺院がそうである様に、浄信寺第八世の時、押小路大納言の二男が養子になり、維新前大納言家存立中は、出入りを許され、これは推論の域を出ないのだが、そうした姻戚関係から、第九世秋楽も二条家今川家等を歴訪しその奥義を習得。更に東儀文均に多年師事し詩歌管弦の秘曲の伝授を受けた事も、無関係ではなかつたと思われる。

 この秋楽は、淨信寺の歴代の住職の中では、傑出した僧侶で、東本願寺声明にも通じ、東本願寺楽頭などを、現代真宗の雅楽や声明の礎を築いた人物であつた。

 現在の本堂は、明治中期に尾張を襲った濃尾大震災で本堂が、倒壊して、明治30(1897)年当時の竹中工務店により再建されたものであり、100年以上の風雪に耐えて来た。昨今瓦をはじめ、本堂そこかしこに痛みがひどく、都市の寺院住職には、たいへん頭の痛い問題である。

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■『尾張志』巻三                                                          戻る
浄信寺 下納屋町うらにありて、知多郡成岩村無量寿寺の末院なり。僧利賢の開基にして寛永12年(1635)、此地に建立す。本尊は阿弥陀如来の木造也。また聖徳太子の制作といへる地蔵の像を余間に安置す。鐘楼、鐘は寛政元年(1789)六月鋳しよし、銘に見えたり。

■『尾張名陽図絵 巻之七』  淨信寺

寛文8年(1668)開基利海もとハ他宗の寺なるや寺説に広井の地蔵堂とて往古は小しの草堂有りを当寺にその地蔵を持ち伝ふという。宝暦10年(1760)現在より四代以前浄土真宗となす。
追々類焼して旧記をうしなふ故に、今において古のさま知れがたしとぞ、今の宗門になりしは、成岩無量寿寺の通所地蔵堂なり、利海と申す僧開基せらる。享保9年(1724)5月13日の大火にて焼失。(「日本名所風俗図絵6」角川書店刊660頁)

■『明治の名古屋人』 名古屋市教育委員会刊 (昭和44年3月1日) 382頁

   羽塚秋楽  文化10年(1813)12月 9日生
           明治20年(1887) 8月14日没
   本名 慈明 (字)通広 号秋楽庵後に秋院に改めた。秋楽院釋慈明楽師

羽塚秋楽は、文化10年二男に生まれた天保9年(1838)25歳で浄信寺第9世の住職を継いだ。秋楽幼時から音楽をたしなみ、文化12年(1829)大神基孚、天保9年(1838)に篳篥を安部季良、笙を弘化3年(1846)豊原陽秋等宮内省楽師に学び、しばしば京都に出て二条家今川家等を歴訪しその奥義を習得。更に東儀文均に多年師事し、神楽催馬楽朗詠などのうたいものから、詩歌管弦の秘曲の伝授を受けその演奏もすぐれたものとして諸国にその名声をとどろかせた。その門下数百人と稱せられ尾張藩士に大道寺主水志水忠平、間宮六郎、生駒周行等東照宮楽人に岡本鍵太郎、恒川弥太郎、佐藤弥平次等その他一般人に大井数馬、取田音次郎、青木信宙、山上基之丞、飯沼一雄、辰巳重房、野中武等の俊足の名を瞥見できる。吉沢検校もその一人であった。
明治2年(1869)に長子慈音に浄信寺住職を譲り、自由人として楽道に専念した、楽器の製作にも非凡の才を示し、幾多門人にさづかったといわれている。明治15年(1882)3月古希の賀宴は遠近数百余人の門人が会し、終日管弦を演じ稀有な集会であったと伝えられている。

 また一面秋楽は、東本願寺声明にも通じ、本願寺から召さて東本願寺楽頭と一派の栄誉と責任をもった。長男慈音、次男慈演(守綱寺)秋楽の次弟慈住(安浄寺)とともに相次いで本願寺楽頭に任ぜられ名古屋楽人の名誉を羽塚一門で負った。昭和11年(楽家緑)50巻の校訂解題をしたのは故羽塚啓明の長子である。
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■『名古屋藝能史』第十七巻 104頁 
  第二十 羽塚秋楽とその一門 ・・綿々として尽きざる楽道の家「羽塚氏」・・

とにかく今の浄信寺が、途中で成岩無量寿寺の末寺となり、浄土真宗となった。その浄土真宗浄信寺の第九世が秋楽である。
 秋楽、羽塚氏。但しこの羽塚という姓は、新姓で、僧籍にあるもの、明治以前は法名だけだったものを、明治にいたりて姓をつけることとなった。その時の新姓で、羽塚とつけたのは、自分たちの先祖が三河羽塚の出であるからである。
 岩成無量寿寺も山号を羽塚山という。その開基良善というものが、三河幡豆郡西条郷羽塚庄(もと平坂村の内、今の西尾市内)に草庵をしつらえ、天台宗だったのが、祖師親鸞聖人の巡錫に逢い転宗。この良善の頃、知多郡岩成(字、天王瀬古)にも一宇を設け、三尾両国にわたって、教化に奔走いた。無量寿寺という寺号は、「今よりは三尾の両草庵を無量寿寺と名づくべし」と、祖師より授かったと言う(「岩成町史」266頁羽塚山無量寿寺縁起)その岩成無量寿寺が、柳原家と婚を結び、その縁によって明治天皇お遺品数々を蔵していることは、余りにも有名。

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┃近世羽塚氏系譜┃
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              ┣━━慈階
              ┃             (浄信寺)                 現(14世)
      慈園━慈照━╋━━慈明━━━━┳━慈音━━慈秀━━隆成━━博隆━━孝和
              ┃(秋楽)第9世    ┃  
              ┃             ┗━慈円━┳━啓明━尚明━━知啓
              ┗━━慈住        (守綱寺)┃
                 (安浄寺 黒田氏)       ┃
                                   ┗━堅子(魚山寺)┳文子       
                                              ┗副雄━━明弘
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東本願寺楽頭系譜
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     初代     二代      三代      四代      五代
    黒田慈住−−羽塚慈音−−羽塚慈円−−羽塚啓明−−羽塚堅子
                                                                     戻る
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■『竹中の遺構』 1992年2月12日 竹中工務店 総本部広報刊

 浄信寺本堂 施工明治30(1897)

名古屋の中心部を流れる堀川。そこに架かる錦橋の近くに浄信寺はある。市の中心部にもかかわらず戦災を免れ、竹中
造営当時のまま現存している。本堂は方七間の平入り。周囲を廻り縁がめぐり、正面には三間の向拝(こうはい)という一般的な平面である。家根は入母屋造。本瓦葺。濃尾大震災後に再建されたものである。
 寺には棟札(むなふだ)をはじめ釿(ちょうな)始めの祝詞や上棟の読文が残っており、竹中には大福帳と工銭渡帳の記録がある。

■『朝日新聞』 名古屋版 1999年9月15日 朝刊 27面

          口笛  都心の寺に鐘が鳴らない半世紀

 その住職は、自分の寺で鐘を突いたことがない。百年余り前に再建した本堂は風格がある。でも門には「用心のため」かんぬきが掛けてある。本堂でお経を読むことは、あまりない。たいていは車で檀家の家へ「出前」する。名古屋駅から東へ1キロ弱名古屋高速の出口近く、オフィスビルに囲まれた浄信寺がある。約三百三十年の歴史がある。羽塚孝和住職(52)は十四代目だ。鐘突き堂がある。昔は大みそかはもちろん、毎日、鐘を鳴らした。戦争がそれを奪った。空襲では本堂も鐘突き堂も焼けなかった。武器の原料に供出させられ、鐘だけがなくなった。先代だった父親は、鐘を作り直そうと考えていたという。しかし急速な都市化で檀家は郊外へ、さらに遠くへと移り住んでいく。財政は厳しくなった。約二百三十軒の檀家のうち、自転車で行けるのは十軒もなく、車で通える家も六十軒ほどいかない。ほかはほとんどつき合いがない。別の寺に「朝から鐘を鳴らされては近所迷惑」と苦情が寄せられたとも聞いた。父は造り直さないまま、六年前に亡くなった。毎年、仏具業者からカタログが来る。五百万円はする。だから「清水寺の観光で、金を払って鳴らしたことがあるだけ」と言う。重しである鐘がないと、お堂は風や地震で壊れやすい。そのため、大きい石を七つ下げた。朽ちた橦木が風に揺れる。「都心の寺には難しい時代です。」鐘突き堂の向こう、夕焼けのツインタワーが浮かびあがる。       戻る

■『朝日新聞』 名古屋版 2006年11月8日 掲載記事  ■ 『本願寺新報』 2007年3月20日 掲載記事
  朝日新聞掲載記事 ■当寺住職 羽塚孝和 関連新聞記事

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