平成16年報恩講平成17年報恩講平成18年報恩講平成19年報恩講黄金の華 |研修

ブータン   Travel to Bhutan      ブータン旅行                   March, 2011

 You Tubeではフルサイズで見る事できます。→ ブータン訪問記  You Tubeではフルサイズで見る事できます。→ ブータン旅行記
 2010年春カトマンズのホテルで、ブータン帰りの旅行客と会い、ブータン国の素晴らしを聞き及び、是非に参りたいと思っていました。2011年3月、東北地方を未曾有の大震災の数日後に、日本を出発して西ブータンを訪れた時に撮ったVideoを、編集したものです。伝え聞くとおり、素晴らしい風景と人々、祭り、仏教を国の宗教としている、ヒマラヤ山脈の麓に抱かれた、九州ほどの国土に人口70万。信号機も、トンネルも無いユニークな王国。それでいて人々は、幸せに慎ましく暮らしている。先代の国王が若くして語った『 Gross National Happiness important than Gross National Products 』正しくその言葉が、生き続けている桃源郷の名に値する国でした。
 内容は、「パロ・ツェチュ祭(Paro Tsechu festival)」のハイライトの「トンドル(Thangka)」のご開帳。舞踊。ヒマラヤ山脈を眺望する「ドチュ・ラ峠(Dochula Pass)」。標高3000mの断崖絶壁に張り付くように建つ「虎の巣(Tiger's nest)」の異名を持つ「タクツァン僧院(Taktshang Monastery)」。ブータンで最も美しい寺院「プナカ・ゾン(Punakha Dzong)」。ブータンの宗教と政治の中心を担う「タシチョ・ゾン(Trashichhoe Dzong)」。その他の場所も紹介しています。You Tubeでご覧下さい。

                              
チミ・ラカンへの坂道 ブータンで最も美しい寺院「プナカ・ゾン」
  ■  チミ・ラカンへの坂道  ■ ブータンで最も美しい寺院「プナカ・ゾン」
                             
Paro Festival (Paro Tshechu) Taktshang Monastery
 ■ Paro Festival (Paro Tshechu) ,March,2011  ■ 標高3000mの断崖絶壁に建つ タクツァン僧院

                                   前に戻

ブータン紀行記 ーーー 『パロ・ツェチュ祭』と西岡京治氏の業績 ーーー 「浄信寺通信」 平成23年夏号掲載

東北地方に未曾有の大震災が起きた数日後に、ヒマラヤ山脈の南麓に位置し、人口七〇万人、仏教を国教とする、日本の九州ほどの面積のブータン王国へ、セントレアから飛び立った。日本からの直行便はなく、タイのバンコックで一泊して、翌日の早朝にブータンに乗り入れている唯一のブータン国営航空「ドゥルック・エアー」の小さな飛行機で、世界で一番離着陸が困難といわれているパロ空港に無事到着した。

 ブータンの国策から無制限に外国人の観光客を受け入れている訳ではなくて、国の認可を得たガイド同伴の旅行が義務付けられている。ガイドと移動の車それに宿泊代金を含めて1日200ドルを国に支払う制度になっており。ブータン国内を自由に一人旅とはいかない仕組みなつている。その反面治安は良くで、発展途上の国の様に、子供が、お土産を持って外国の観光客に付きまとう姿は皆無であった。それどころか小学校から、公式言語のゾンカ語以外の授業は、全て英語でなされており、インドと中国の大国に囲まれたヒマラヤの小さな国が、国際社会の中で生き延びていく慧智として英語教育を最重視している姿勢は、この国の優れた指導者の英断を垣間見た気がした。

 今回、ブータン国を訪れた目的は、このパロでの最大の年中行事である『パロ・ツェチュ祭』の見学であった。
『ツェチュ』とは、¨毎月の10日¨と言う意味だそうです。紀元後800年前後に、チベット仏教をヒマラヤ地域に流布させたニンマ派の祖師グル・リンポチェ(パドマサンバヴァ)が、生涯に起こした12の奇跡が、毎月の10日に起きたと言う伝承に基づき、毎月の10日にその月に該当する法要を営み、グル・リンポチェに再び会うことできると人々に信じられてきた行事である。

 ブータン各地では毎月『ツェチュ』祭りが行われているが、その中でも『パロ・ツェチュ祭』は、ブータンに春の訪れを告げるこの国最大の祭りである。パロ谷を見下ろす小高い丘に建てられたパロ・ゾン(ゾンと言うのは寺院の意味)のデヤカン広場で、5日間にわたって開催される。祭りの間は学校は休みになり、ブータン国内は言うに及ばず、外国からのも多数の見物人が訪れるのである。
祭りの期間中、僧侶(一部は専門の舞踏家が含まれる)による、鮮やかな衣装と伎楽の面を彷彿(ほうふつ)させる各種仮面をつけた【チャム】(「チャム」はチベット語で「跳」または「舞」の意味だそです)と言われる仮面舞踊や、地元の女性による民族踊り(民謡)が披露される。

 前述したグル・リンポチェが、この地に広めた仏教は、日本の仏教と同様に、紀元前5世紀頃にお釈迦さまが悟られた仏教とは、少なからず異なっている。彼は自らの霊能力と権威を駆使して、その土地の土着の悪魔達を次々倒し、習合して仏教徒に改宗させていったと言われている。チベット密教(ラマ教)に近いとされている。
こうしたグル・リンポチェの行実が、壮大なオペラや叙事詩の如く踊や劇で『ツェチュ祭り』の間に披露される。謂わば難解な仏教の教えや、グル・リンポチェの業績を【チャム(仮面舞踊)】を通じて、人々に分かりやすい形として伝播・伝承してきたのである。
 殊に人気が高いのが、今回は見学出来なかったのだが、閻魔大王の法廷を題材にした仮面劇「ラクシャ・マンチャム」です。善人と悪人が死後裁きを受ける天秤にかけるシーンは、因果応報の教理を、理屈や論理を超越して、観る者に大きな感動と驚きをの与えてきた。これを観る信心深いブータンの人々は、敬虔な祈りをささげ、自らの人生を考える契機になっていると言われている。仏教の教えが人々の生活の中に生き続けているのである。

                         ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 ブータンでは、公式な場所や行事では、男性は日本の丹前に似た「ゴ」、女性は「キラ」と言われる民族衣装の着用が義務づけられている。年に一度のトンドルのご開帳には、色鮮やかな金糸銀糸の刺繍を織り込んだ豪華絢爛な衣装で着飾った「キラ」を着た女性達が、5日間の『パロ・ツェチュ祭』の最取日のトンドルのご開帳を観る為に、薄暗いデヤカン広場の坂道を登って行く。「キラ」を着たブータンの女性の姿は、あたかも日本で言えば、佐久の盆踊りの如く『夜目遠目笠の内、物の文目(あやめ)が分からん・・・』そんな世界を、思い起こさせる幻想的な光景であった。
2011年3月20日の早朝と言っても、午前三時頃から、縦・横30メートルもあるトンドル(大掛仏)のご開帳で、この祭りのクライマックスを迎える。「トン」は、見る事。「ドル」は、解脱を意味している。ブータンではこのトンドルを見るだけで解脱できると信じられている。このトンドルには、正面中央にグル・リンポチェを本尊に、多くの菩薩。諸仏。不動などが、総絹で色鮮やかにアップリケで描かれている

 やがて、トンドル(大掛仏)が掛けられる建物の前に、赤い法衣を着た僧侶によってトンドルが運び込まれ、祭檀が設えられ、バターランプの独特な臭いと、ろうそくの炎が揺らめく。満月の月明かりもとで、ひときわ大きいドラの音を合図に、建物の屋上から下げられた綱によってゆっくりと、巻き上げられると、トンドルが徐々に姿を現すのである。今では多少ライト・アップがなされいるが、昔は、電気も無く、月明かりやバターランプの光、かがり火の明かりに浮きあがったこのトンドル拝んだ、ブータンの人々は、正にグル・リンポチェの再来を信じて疑わない感動を味わったに違いない。
人々は、こぞってこのトンドルの前に進み出て、裾を額に押し当てて無病息災を祈念するのである。やがて太陽の東の空に昇る頃に、僧侶による法要が勤修されるのである。
 この法要は、一旦ホテルに帰り朝食を食べていた時の行事で実際には観ていないのだが、地元のTVで実況中継がなされていた。驚いた事に、この法要の中で、今回の東北地方を襲った大震災の犠牲者に対しての追善法要を勤修する旨の報道がなされていた。はるかヒマラヤの小さな国のブータンの人々が、見も知らない日本の犠牲者に対してその魂安らかなれと、祈りをささげて下さる姿には、心打たれた。翻って考えれば、少なくともあのアメリカの貿易センタービルの惨事の折に、我が宗門に限らず、日本仏教界が犠牲者に対して追善法要をした等とは聞いた記憶がない。ブータンの人々のこれほどの親日感には、ブータンで28年間献身的な農業技術指導を行った一人の日本人の故西岡京治氏の活動を抜きにしては、語れない。

                         ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 西岡京治氏は、1933年京城(ソウル)で解剖学者西岡辰蔵の長男として生まれた。戦後大阪府八尾市に居を構え、大阪府立大学の農学部に入学。当時助教授だった中尾佐助氏の勧めで、海外技術協力事業団(現・国際協力事業団)の農業指導者として、東京オリンピックの年1964年4月に、奥さんと二人で鎖国状態のブータン国に赴任した。小さな実験農場で、日本から持参した大根の試験栽培を試み、懇切丁寧に栽培方法を現地の人々に指導した。それまでブータンでは見たことのない大きな大根が育ち、次第にブータンの農民の信頼を得る事になり、西岡氏も農業指導に心血を注いだ。
 中でも稲作の栽培では、ブータンでは、それまでは、勝手気ままに乱雑に苗を植えていたので、苗と苗の間の風通しが悪く生育に悪影響を与える。更に手押しの除草機が使えない非合理的な栽培方法を、旧来の栽培方法に固持するブータンの農民に日本では当たり前の並木植に変更する様に指導した。(並木植:縦と横を一定間隔で苗を植える方法の事)結果は、並木植えに変えただけで、それまでも収穫量は40%も増大したのである。氏は又人材の育成、新品種の導入による生産量の増大、野菜、果物栽培の普及と食生活の改善等精力的に従事した。

 1976年からは、国王直々の立案によるシェムガン県の開発プロジェクトに責任者として携わることになる。シェムガンは、ブータンの中でも極貧地域で人々は昔から中央から忘れられた土地と言われていた。人々は昔からの焼畑農法に頼っていた。収穫量が下がると新しい土地に移住して、また森を焼き、畑を作る。それを繰り返す生活を営んでいた。ここでも、西岡氏は「身の丈に合った開発」を提唱して、コンクリート製の橋を作るのではなく、現地の人々の技術で新しく17本のワイヤーロープ製のつり橋を掛け。塩化ビニール製のパイプや竹を利用した水路の数は360。現地の人々の手作業での道路の総延長は300キロにも及んだ。シェムガン県に1.2ヘクタールしかなかった水田は、50倍の60ヘクタールに増大し穀倉地帯に変貌を遂げたのである。
 1980年西岡は長年のブータン農業への貢献を評価されて、国王から「ダショー」の称号を受けた。(ダショーとは英語のベストを意味し、英国のサーにあたる称号「最高に優れた人」という意味)ブータンでは、県知事や最高裁判所の判事に与えられる称号。この時すでに16年の歳月が過ぎていた。それから更に12年間西岡氏のブータンでの活動が続くのである。1992年3月21日敗血症でブータンにて急死するのである。

 葬儀は1992年3月26日外国人では極めて異例の形で、農業大臣が葬儀委員長を務める国葬で営まれた。僧侶の読経が、西岡氏の愛したブータンの山々に響わたり、パロの町を見渡せる高台に作られ斎場で、遺体は火葬された。ブータン全土から、5千人もの人々が葬儀に参列したと言われている。パロ農場の一隅には西岡氏を記念する【チョルテン】(仏塔)が建てられ、ブータンの人々の記憶の中に今でも生きているのである。記憶だけではなくて、余り知られていないのだが、西岡氏とブータン人の現地妻との間に生まれた遺児が、農業指導者として今なおブータン農業の発展の為に貢献されている。当初未知の国で苦楽を共にされた、日本人の奥さんは、西ノ宮で、ブータン関連のお店を開かれている。
                      
                                  前に戻



 

2004年7月31日(土)8月1日(日)の両日、カネオヘ東本願寺において本堂再建40年並びに創立80年の法要が行われ、名古屋教区坊守会有志、ちいちいの会(女性合唱)、名古屋教区19組教化委員会のメンバー等16名で4泊6日の研修旅行に参りました。
 真宗大谷派のハワイ開教は、1999年に100年の歴史を迎え、現在も当派の寺院は6ケ寺あるが、多くの日系人の支えにより今日まで受け継がれてきました。
 このカネオヘ東本願寺は、1924年より布教所として開設され、毎月開教使をホノルルより迎え活動を行っていました。そして1964年、カネオヘ住民の協力を得て、メンバー(門徒)自らの手によって現在の建物が建てられ、初代開教使松本信雄師を迎えてカネオヘ東本願寺と改称されました。当時は、日本語教室や日曜学校などを通して子供から大人まで、多勢のメンバーや、地域住民の集いの場として、盛んな活動が行われていたそうです。しかし現在は、そのメンバー数も40名弱へと減少し、70〜90代と高齢化している状況の問題点を、カネオヘ東本願寺駐在開教使の前田健雄師が、語ってくれた事が印象に残りました。
                               
カネオヘ本願寺 カネホヘ本願寺堂内
40年前に造られた本堂。手作りで建てられたそうです。     堂内は、教会風の長いすの信者席
戦艦ミズリー1 ミズリー主砲
日本の降伏文書の調印式の歴史的の舞台となった戦艦    ミズーリー(排水量58000トン昭和19年建造)
神風特攻機 ミズリー上での神風特攻隊員の水葬
■1945年4月11日午後2時43分、沖縄海戦にて戦艦ミズーリーに、上空30mで体当たり攻撃する日本海軍の零式艦上戦闘機 『Kamikaze Attack 』 (神風特攻機)

■右艦尾甲板付近に、撃突し、燃料と、搭乗してき若い日本人のパイロットの死体が、甲板に投げ出された。その遺体を艦長の指示により、手厚く葬る戦艦ミズリーの乗組員
注:【上記2枚の白黒写真は、戦艦ミズリー博物館の見学者用パンフレットより参考資料として転載しました】                                              
ワイキキの夕日 ハロナ潮吹き穴
 ワイキキの浜からの見た夕日です。                  ハロナ潮吹き穴の右手の風景海が青くて感動                               
ダイヤモンドヘット写真 帆船海王丸
 海上から見た有名なダイヤモンド・ヘットです。          海の貴婦人・帆船海王丸が入港してました。        



                                       前に戻