恵信尼と親鸞山号 | お盆? 先祖供養懸魚空と0?

      

8月16日、京都東山如意ケ嶽の『大文字』。その他にも『妙』『法』『船形』『鳥居形』などがあり、さらに左大文字と合わせて、現在六種類の火文字が行われています。以前は『い』『一』『蛇』『長刀』などの送り火もあったそうです。
 お盆と正月は、日本の二大国民的行事です。お盆とりわけ八月の月遅れの盆の頃は、故郷で、お盆を迎える人たちの帰省ラッシュが起こります。民族の大移動というべき光景が、日本各地で繰り広げられます。お盆というのは、私たちの生活に密着した行事になっています。

 『お盆』についての解説や仏教辞典など見ると、「お盆」即ち、正しくは「盂蘭盆」の事であり、その語源はインドのサンスクリット語の「ウランバーナ」と考えられ、その意味は、「逆さ吊りにされた激しい苦しみ」という事であり、この苦しみをとりのぞくのが「お盆」とされています。
 「盂蘭盆経(うらぼんきょう)」という経典には、
釈迦の十大弟子の一人に、目連(もくれん)という人が居ました。目連は神通力第一と言われ、摩訶不思議な力をもった人のようで  す。この目連が、ある日、霊能力を使って、亡くなった母親を死後の世界に探しに行き。母親が、餓鬼道に落ちて地獄の苦しみを味  わっている事に驚いた目連が、お釈迦様にどうすればよいかと、相談をして、釈迦が、当時のインドで修行の終わる日(七月十五日) に、僧侶達に食べ物を施すように言いました。目連が言われたとおりに修行を終えた僧侶達に、食べ物を施し、その功徳によって母 親が救われたということです。

 この盂蘭盆経(うらぼんきょう)には、インドのサンスクリット語の原典がなく、お釈迦様がそんなことを言ったのか?、疑問もあるのだが、中国に仏教が入り、孝行を重んじる中国や日本で、この経典に書かれている、考えを受入れ、先祖を大切にする心を持ち続けたのは、どうも事実の様です。

 日本では、「日本書紀」推古天皇の十四年の条に、寺院で四月八日と七月十五日に斎(とき)(=僧の食事)を設けたとあり。同じく「日本書記」の斉明天皇の時代(六五七年)に飛鳥寺の西で孟蘭盆会が営まれたと記されています。私達日本人は実に約1400年もの間、お盆の行事を行ってきたのであるが、民間(一般庶民)で行われる様になったのは、江戸時代以降とされています。
 こう述べてくると、「盆」とは仏教固有の行事のように考えられがちですが、そうとも言い切れないところに、日本人の不思議さがある気がします。これは、正月行事などと同じように、日本人の固有の宗教観や霊魂観と、仏教でいう供養の概念が融合して、「お盆」と言われる行事になったとされ、また供え物を載せる容器を、かっては盆といったことから、この行事を盆というようになったとの説もあります。いずれにしても、お盆は、日本人にとっては、「お正月」と同様に、祖霊の御霊を祀る大切な行事として、受容してきたと、仏教民俗学では、説明しています。

 こう言うと、理窟好きな真宗学の徒からは、必ず反論が出るのである。霊魂とか、「迎え火」とか「送り火」とか、亡くなった人に、本当に見えるのか?。ご先祖さまは、本当に昔住んでいた家に戻って来るのか?。「浄土真宗」では、死者は、すべて極楽浄土に、往生していると説いている。だからお盆に、魂や霊魂が、帰って来るなどとは、「教理・教学」から言っても間違いで、
「霊魂」などとは迷信に過ぎないと、論じる真宗僧侶もおられるのだが、こうした理窟は、あまり小生は意味がない気がします。なんとなれば、狭い領域の見知からのみ、他人に対する安易な、迷信呼ばわりで、一部の宗教関係者にありがちな不寛容を、自ら露程している気がします。
 それよりも、日本人は昔から、お正月やお盆に、先祖の祖霊を迎えて供養する為に、色々な慣習や儀礼を伝承してきた事。そして今の私たちの生活に溶け込んでいる事、その事の意味を、考える事の方が大切ではないだろうか?。
 なにげなく、習慣として受け入れられている「お盆」には、どんな意味があるのか?。

 お盆の行事も、正月行事同様、地域ごとに違ってきますが、その意味においては、それほど違いがありません。お盆は、祖霊がお盆の期間だけ家に帰って家族ともども過ごし、再びあの世に旅立つまでの間の行事(まつり)と言われています。
 お盆行事(まつり)には、三つの要素があると言われている。

 (1) 祖霊のまつり (死者祭祀 )
 (2) 豊穣のまつり (穀霊まつり)
 (3) 魂のまつり  (生命の更新)

 この三つの要素がつながりあるものとして受け取られてきたのが、日本人の古くからお盆行事(まつり)に対する考え方だったとするのが、いわば民俗学の定説として、多くの研究者から認知されています。

 そして、「盆と正月が、一緒に来る」と言う言葉が、ある様に、年の始まりには、二つあり、一つは稲作を中心としたもので、正月を年の初めとするものです。歳神を迎えて米などの穀物をささげ、新年の豊穣を祈ります(=お年玉)。他方は、蕎麦や芋などの畑作を中心としたもので、旧暦七月のお盆の時期が、二つ目の年の初めとも考えられてきたといわれています。今でも、お盆には、喬麦や芋を供物としてささげる民俗が伝承されており、「お盆」を芋正月いう地方もありました。

 この二つの豊穣を祈るまつりと、祖霊を迎え祀るまつりが、複合され。豊穣をもたらす神は、すなわち祖霊でもあったのです。
民俗学を創始した柳田国男によれば、「先祖の霊は神となって、子孫のために作物が豊かに稔ることを見守ってくれる。だから、作物がとれたら、それを供物として祖霊神にささげ、共によろこびをわかちあって、これを共食し、新しい年の豊穣を祈る。豊穣を祈るまつりは、そのまま祖霊を祀ることになる」と説明しています。
 日本人は、食物が新たに稔るのを祈る事と、神や祖霊を迎え、共に過ごすことを、一心同体として、年中行事のや祭礼の中に伝承してきたと言えるのである。
 民間における「お盆」の行事として例えば、「迎え火」「精霊棚」「精霊流し」「送り火」「盆踊り」「盆堤灯」なども、そうした先祖の霊魂を迎え、供養する意味が含まれていると言われております。 お盆の墓参りの花には、多くの場合、「ほおずき」の花が入っています。一説では、「ほおずき」は、その形が、堤灯に似ているところから、十三日に、先祖さまを迎える、「みたま」の目印の「迎え火」や、その簡素化された形としての盆堤灯の意味があるとされている。お盆のお墓参りの花一輪にも、我々日本人が、受け継いできた伝統や習俗に無関係とは決して言えない気がします。
 「お盆」の時期は、旧暦でおこなったり、新暦の七月、あるいは月遅れの八月など、多様ではあるが、日時は、13日〜16日は、共通である。淨信寺も、かっては、本堂の横の境内地に墓地があり、お盆に限らずお墓参りの方々が、訪れる姿を見かけ、お寺もにぎわっていたのだが、戦後の都市計画で、市内中心部の寺院の墓地は、平和公園に集団移転して、そうした日本的光景も見られなくなってしまったのである。

 お墓は、先立たれた方を弔い、その遺骨を、墓標として「お墓」を建立してお参りしている。生きている人も亡くなってしまった人にも、きっと、「大事な大切な人」がいるに違いないのでは、そんな人の事を、普段の日常生活に追われて、忘れがちではないだろうか?。
 先述した様に、浄土真宗では、亡くなった人は、すべて極楽浄土に往生すると説きます。その極楽浄土で、この世で、誰かが、自分の事を覚えておいて、ときおり想い出を、懐かしんでくれていると、思う事は、嬉しい事ではないだろうか?。「思いで出だけで」人生は生きられないのも事実ですが・・・・

 ご先祖を祀る「お墓」には、身内の遺骨を納め、それは、生きとし生きる者の
すべての【いのち】に、目覚めさせていただく出発点として、自分に直接つながる、ご先祖さまの供養を通じて、生きている者の、幸せを祈り考える、あるいは、亡き人々との出遇いを通じて、今ある命を見つめ直し、仏法に出逢う場となれば、お盆やお墓参りが、また意味のある、慣習や行事になると、思うのである。こうした意味でお盆や墓は、死者との交流を通じて、人々は現実の生活から離れ、いのちの源であるふるさとを想い、いま生かされている者が、亡き人に供養をするという形を通じて、幾世代にも伝わってきた人間の営みと、生命の尊厳を、次の世代の子供たちにも、きっと自覚させてくれるに違いないと思います。
 是非「嫁いだ娘さん」や「お子さん」或いは「お孫」さんも、お時間が有れば、親族家族一緒に、ご先祖さまのお墓参りをしていただきたいものだと、思っています。 
                       
                     前に戻   【「浄信寺通信」】平成12年夏号より】転載