恵信尼と親鸞山号お盆? | 先祖供養 | 懸魚空と0?

 

先祖供養 の意味?・・・日本のほぼ全ての寺院は、先祖供養とお葬儀に深く関わりを持っています。

◎先祖供養と日本人の霊魂観◎

卑彌呼の時代の三世紀頃の日本を記述した『魏志倭人伝』には、
倭人(日本人)が死ぬと十日あまり遺体を安置して、肉食を慎んで、喪主はその前で哭(な)き、他の者は集って歌舞飲食し。そして葬送がすむと全員が禊(みそぎ)をして穢(けがれ)を祓(はら)う。
とある。安土桃山時代の天文三(1549)年に日本を訪れた、聖フランシスコ・ザビエルは、本国に次の様に報告している。
日本の信者には、一つの悲嘆がある。それは私たち(キリスト教の宣教師の事)が教えること、即ち地獄へ堕ちた人は、全然救われない事を非常に悲しむのである。亡くなった両親をはじめ、妻子や先祖への愛の故に、彼等の悲しんでいる様子は哀れである。死んだ人のために大勢の人が泣く。そして私(ザビエル)に尋ねるのである。祈りをもって死んだ人を助ける方法はないものかと、尋ねるのであるが、私はただ助ける方法はないと答えるのみである。

熱田神宮に裁断橋と呼ばれた橋の欄杆(らんかん)が今も史跡として熱田神宮の近くに残されている。その擬宝珠(ぎぼし)の銘文には、豊臣政権樹立の仕上になった天正十八年の小田原北条氏との戦いで死亡した十八歳の堀尾金助の母親が、三十三年後の元和八(1617)年に、息子の供養の為に橋をかけたとあるのである。銘文には、
ふためとも見ざる悲しみのあまり、今この橋を掛ける成。母の身には落涙(らくるい)ともなり、即身成仏し給へ、…後の世のまたのちまで、此の書付を見る人は、念佛申し給へや三十三年の供養也。 とある。

   新魂(あらみたま)は荒魂?

 これら資料によれば、日本人の霊魂観には、死後まもない魂は、ケガレが多くそのままにしておいては、祟りやすく恐ろしいと言う観念が濃厚に存在していた事を前提にしなければならないのである。
 即ち新魂(あらみたま)は、同時に【荒魂】であったのである。そしてそれらは、子孫の社会に災をもたらすものと考えられたのである。【荒魂】はできることならば一定の場所に封鎖鎮魂しておく必要があったとされている。こうした荒魂を鎮めるためには、『魏志倭人伝』にある歌舞飲食とあるのは、何らかの宗教儀礼がおこなわれた事を推定させる。仏教の伝来に伴って、教理としての仏教と言うよりは、お経や念仏の力によって生前の罪を滅ぼす事が出来ると信じたのであった。

 日本の庶民が罪と感じるのは、社会にたいして迷惑をかける行為にほかならない。その罪は、社会のために何か良い事を行なう事。つまり善根によってその罪を贖(あがな)うことができると考えたのである。殺人を犯した人が、民衆の為に橋を掛けたり。トンネルを造ったりした話は有名である。熱田神宮の裁断橋はまさにそうしたものであった。
 四国では、善根宿といって巡礼者を無料で宿泊させたり。食物を与えたりしたのである。今からもう30年ぐらい前、小生も学生の頃、四国お遍路を1週間ぐらい徒歩で回ったおり、お百姓さんが、お接待お接待といって、道すがら通りかかるとお金を頂いた経験があります。作善追善供養善根をする事つまり【作善】は、本来は生前に行っていくべものであったが、家族や子孫が、本人の死後代って行なう。つまり追加して善を行なうから【追善】になるのである。追善は僧侶に頼んでお経を読んでもらうことだけでなく。社会にたいして善根を積むことでもあるのである。
 それは、仏教の『慈悲』の教えと共に、日本人の運命共同体の意識から出たものであろう。社会全体と共に生き、集団往生しようとする日本人の精神生活のあらわれであった。死者の霊は、死の直後は、祟りやすく荒れる魂であったが、滅罪鎮魂供養を重ねるにしたがって、だんだんと鎮魂されて一周忌、三回忌と滅罪追善供養の贖罪儀礼を経過するに従って、一層浄化されて、神もしくは仏に近づいていく、我々の先祖は、大体この様に考えたと、多くの宗教民俗学者は説くのである。庶民は、こうした霊魂説だけでは満足せず、その魂や罪には、重量があると考え。子孫に追善供養もしてもらえない魂は、いつまでたっても軽くならないで、生前の罪を背負ったまま、地獄の底に沈殿して文字どうり【うかばれない】のである。ザビエルに地獄から救われる方法は、ないと軽くあしらわれた事の解答を、日本人自身でここに見出していたのである。

 この様に日本人は、死者の霊魂の存在を強く信じたのである。これを慰めたり、鎮めたりして、やがてその恩恵を受ける事を祈念する民族であった。それも、歌謡曲の歌詩の通り、現在・過去・未来と続く系譜的霊魂の実在を信じて疑わなかったのである。葬式や供養に代表される所謂『葬式仏教』が、日本の『家』の原理を少なからず支えており、いささか、坊主の自満足的言い方をするならば、日本の社会秩序と歴史の根底をなしていたと思うのである。宗教は個性を埋没して絶対者に帰依するものであるが、庶民にとっては極めて抽象的で難解であった。それを日本の庶民は以上述べた霊魂観にもとずいて、以下の様に理解したのである。

 即ち、生きている人間はなまじ肉体を持つ故に、有限である。しかし霊は、その有限なるを捨てた為に、無限大であり、万能になったのである。仏教の説く『ほとけ』は、即ち覚者であり、正覚を得た者、悟りを得た者と、同列に無限・永遠・万能になった霊は、同じと解したのである。即ち、死者・祖先の霊・そして仏教の説く【仏】この三者をみな同じものであると、実に平易で解りやすい庶民の仏教理解であったのである。

 それ故に、日本人は、仏檀に@仏教信仰の対象として仏を礼拝して、その加護を願い、奇跡を祈る聖檀と同時に又A先祖を想い感謝して加護を祈る祭檀でもあったのである。つまり家の中には仏檀があり、朝夕冥福を祈る、そこには、死者の御霊と共に生活していると言う慰めの心があった。仏壇を介しての先祖に象徴される見えない影の存在の部分を、少なからず無意識に意識していたのである。そして『庶民のより良く生きたい』と言う願望を、葬式仏教に象徴される仏教に託してきたのである。それは現在の自分・過去の霊魂・未来子孫全ての者が『より良く生きることへの切実な祈りであったのである。そしてその事を、庶民は焼香と言う動作を通じてあの世とこの世、生者と死者はお互いに交流できると信じたのである、香の煙が空中に漂いあの世にいる、先祖や知人に自らの気持ちと祈りが通じると信じ、焼香と言う動作に心をかよわせてきたのである。こうした日本人の祖霊観や霊魂観を理解しないと、現代の仏教を形式主義の『葬式仏教』であると、自らの都合の良い論理で理論武装して、日本人の祖霊感や霊魂観にたいして理屈以前の、心からの共感と共鳴を覚えずして、単なる経済行為に終始しては、遺族や死者に対しての冒涜であり、坊主自らの自己欺瞞である。勿論我が宗派が、先祖供養や葬儀だけを目的とする宗教では、ないこと事は言うまでもないのである。

 我々僧侶の側(宗教)にいる者は、ともすれば、魂の救済、絶対者への帰依といった要素を欠くものは、宗教でない。とする確信に満ちた信念を持っておられる方も、皆無ではないと言うより、ほとんどの方が表面上(建て前)は、そうかも知れない。それは仏教なり宗教を別格の領域や概念・観念に押し込めてしまう事なのではなかろうか?。宗教に高級とか低級とか、そんなランク付けをする意味があるのか小生は、大いに疑問に思うのである。七五三に産土神に参り、ご法事には、僧侶を招いて読経し供養する。新年には、神社に初詣に参る。これが日本人のある意味では、極めて健全な姿であるかも知れない。すくなくとも宗教を原因に同じ民族が争うそんな事態は、我が国には無かったのである。

 明治以降神道擁護の立場の人からは、死して、肉体は朽ちはてて、跡はなくとも、なおこの国土に留りて、その縁絶ちがたく毎年日を定め、子孫の世に出る姿を見たいであろうに、仏教は、こうした日本人の願を、極楽往生・成仏などと言って、此の世に出てくる事が、さも心得違いの如く余りにも遠くへ送りつけ様とした事に対して、排撃を受けたのは、記憶に新しいところである。しかし、無名の庶民の智恵は、こうした日本人の…なおこの国土に留りて、その縁絶ちがたく…に代表される日本人の霊魂観と、仏教の極楽往生、成仏という。二者選択をせずに、たくみにに霞染め染物の様に日本人固有の霊魂観を習合・同化・融合して造りあげてしまったのである。卓越した日本人の智恵であった。外国の文化や技術を巧に融合・同化するのは、なにも近世にはじまったのではなく、日本人の特技であったのである。現代の日本は、独創性に乏しく、外国模倣にすぎないと痛烈に世界から非難されると、世界の孤児になる危機感を煽り、やたら良い格好して金をばら撒く政治家には、困ったものである。

おわりに

 物質主義から、人間主義とでも言うべき精神への回帰を切望する現代にあって。こうした『葬式仏教』に象徴される日本人の霊魂観を、粗末に扱っていないか。それは、現代の日本人が、過去の霊魂観に代る新しい宗教や生きがいを創造し、発見したのではなく、日本人の霊魂観や「死」と言うものを、忘れたふりをしてひたすら「生」を求める余り、「死」を恐怖するばかりでないか?
 
 そして自分自身では、その解決の方法が見い出せないとするならば、我々の先祖が造りあげてきた、葬式仏教に象徴される。習俗や習慣・年中行事の意義を再度考え、現代に生きる日本人が、過去から受継ぐ伝統や霊魂観を、後世の人に伝承したいものであると思うのである。


■主要参考文献資料
 堀一郎『我が国民間信仰史の研究』
 柳田国男『先祖の話』
 五来重『日本の庶民信仰』
 高取正男『宗教以前』
            
           
                     前に戻   【「浄信寺通信」】平成12年夏号より】転載