恵信尼と親鸞 | 山号 | お盆? 先祖供養懸魚空と0?


当寺の正式名は無城山浄信寺。この無城山(むじょうざん)これを山号(さんごう)と言います。山号てどんな意味?

 新幹線で京都へ行く途中近江路の左右の車窓を眺めていると、各村落の一般民家の中に大きな寺の本堂の屋根が目に入ってくる。同じ、寺院を預かる住職として、同一村落の中に寺院が数か寺あり、檀家も数十軒の事例もある。過疎の村落では、寺院の跡継ぎが、都会で別の職業に従事して寺に帰らないで、廃寺に追いやられる例も今後増加すると予測されている。こうした寺院では堂宇維持管理の問題も深刻である。本堂や庫裡の建築に、住職の一生の大部分の心血を注ぎ建築した例などはあまたあるのである。都会では高層ビルの陰にかくれて、寺院の屋根も見えない、それでも京の町にはまだ壮大な伽藍を誇る寺院がいくつもあり。広大な境内や山にある寺院などは、まさに別世界、俗世界から切り離された聖地そうした寺院の境内に、一歩入いると現世と隔絶した一種の宗教的雰囲気を体感できるのである。

 そしてそれらの寺院には、山号と言うものがある。比叡山延暦寺。高野山金剛峰寺。東京の浅草寺は金龍山。真宗では、東西両本願寺ともに、大谷山・龍谷山と山号がある。比叡山、高野山と言えば、それは山の名前ではなくて寺院名を言っているのである。不思議に、飛鳥・天平時代に建立された法隆寺とか唐招提寺などの南都七大寺には、山号がない。寺院の山号に付いては、中国の禅宗などの寺院制度にその由来があると言う説。禅宗寺院では、中国の五山の真似をしてそうした山号を付けた事も、想像できるが、小さな村の村落寺院にまで山号が付けられた理由の説明にはならない。寺院の山号を語るには、日本人の宗教や霊魂観の問題を語る必要があり。いわば庶民信仰を抜きにしては、山号一つとっても、語れないのである。

  山国の日本

 数年前にあるTV報道番組で日本列島を空撮した映像を流していた、世界でカナダと北欧スカンジナビヤ半島の数カ国を除いて、国土の八割までが山である国は日本以外にはないのである。そして不思議な事に、我が国の山には賽の河原。極楽池。地獄谷とか。山頂近くには、阿弥陀が原などの地名が付いている。また多くの山を日本人は、霊峰○○山と呼んでいる。もちろん世界には、神の棲(す)む山として古来より親しまれていた山がない訳でもないが、里から見える小高い山にまで、神や仏の世界と考えた民族は日本人以外にはないのである。日本人にとっては、山は古代には狩猟、食料採取、採鉱、採木等の場であり。平地で農耕が営まれれば、その水源を山に依存した。従って山には、強力な力を持った霊や神がおり、これに真剣に祈れば恩寵(おんちょう)があるが、これを怒らせれば不幸があると信じた。山は生活の糧(かて)と同時に、日本民族の宗教の原点でもあったのである。

 日本人の先祖崇拝

 民俗学者の柳田国男『先祖の話』によれば、日本人は昔から、死ねばその霊は、家の裏山のぼっていくという事を、ごく自然に信じていたと言っている。万葉集の研究者によれば、「万葉集」には「挽歌」といわれる死者をいたむ歌が多くあり、その歌の内容を検討すると、死者の霊魂は山、岩、雲、霧、樹木などの高いところにのぼっていく傾向がみられる。特に「山」にのぼる例が「挽歌」の半数にも達している。と指摘されている。
 まさしく山に対する日本人の畏怖(いふ)とあこがれを如実に語っているのである。言葉を変えれば、山は死者の行くところ。若しくは、霊(魂)のゆくところとして意識されていた。この事は、斎場の事を、ヤマと言う呼び方も、つい最近まで耳にした事でも明かである。
 こうした、山にのぼった霊魂は、はじめは危害を及ぼす荒魂(あらみたま)であるが、追善供養をする事で、浄められたやがて祖霊になっていく。即ち和魂(にぎみたま)になる。そして一定の歳月がたつと、この祖霊は、自然にカミの地位へと上昇し。同時にこれらの祖霊やカミは、季節に応じて今度は里に降りてくる。里との往来を始め、それは田の神や年神であり、里に定着して氏神や産土神になった。つまり死者は、山を媒介にして、そこでカミの地位に昇り、時折里へ来訪し往来を繰り返すものと信じられてきたと言ってもいい。(学術用語では『霊魂昇華説』と言っている。)こうした祖霊やカミを、具体的な形として、蝶・螢・白鳥・狐・鶴・猿などが、霊やカミの代理として祀られたりしたのである。河童(かっぱ)もまさにこの代表的なものである。山の神の化身として顔は、猿の形をしている。そして田の神の化身としては、亀をイメージして、亀の足(手)を真似て、河童には水掻きがあるのである。

 仏教伝来と山の概念の変化

 ところが、六世紀に我が国へ仏教が大陸から入ってきて、それまでの「山」にたいする日本人の考え方に変化を生じさせたのである。
 周知の通り仏教の他界観は、死後、人間は天界や遠い彼方の異郷に往生する事を強調し、浄土教思想は、死んだら西方十万億土の彼方に往生することを説いた。また地獄は、地下の何万由旬(ゆじゅん)という暗黒の世界に存在するのだといったことを教えている。
 しかしながら古代の日本人は、このような仏教の観念的な他界観に手を加えて、日本的な他界観へと変化させた。それは、仏教の説いている他界の領域(極楽・地獄)を山中に移しかえ、山中他界として表象した。そして、そうした考えを民間に普及させ、伝播させたのが、民間の私度僧で沙弥とか聖(ひじり)とか呼ばれた名もない多くの僧侶であった。こうした聖の活動を無視しては、仏教の普及もあり得なかったのである。仏教が日本人のものになるためには、大衆の生活にプラスになる宗教活動が、多くの聖によってなされたのである。有名な行基も、そうした沙弥・優婆塞の一人であった。
 そして、十世紀ごろを境として、浄土教の民間への浸透にともない、死者の霊魂は阿弥陀如来の浄土や、その他の仏の世界に赴くと信じられた。そのような浄土は初め、高野山などの山中浄土や海上はるか彼方の(補陀落)観音浄土として考えられていたが、近世に多くの寺が創建されるに及びその寺に付属する墓地が、先述した里にある山地と共に霊魂が赴く聖地とされるようになったのである。従ってそうした寺(聖地)の入口にある門ならば、寺門と言ってもいいのだが、お寺の門の事を、山門と言っているのである。
 従来浄土思想と言えば、法然・親鸞を思い出す。少し知識のある人は、それに源信や一遍を付け加える。さらに教学的には、インドの龍樹、世親、中国の曇鸞、道綽、善導におき、それらの高僧や思想を語る事が、浄土教史であると考えられてきた。しかし庶民信仰に於ける、浄土観や死後観は、浄土宗や浄土真宗の説く教義とは、まったく異質なものである。庶民は、極楽は、浄土十億万億土の彼方にあると僧侶に聞かされ、又極楽浄土は、西方浄土にあるとするならば、そこへ極楽往生したからには、もう二度と戻れない?。しかるに日本人は、そうした浄土教的教えにもかかわらず、お盆のときには、迎え火によって霊を呼び、送り火によって霊を送るのである。又伝統芸能と言われる『能』も、薪能の火につれて、能のシテの霊はやってくるのである。能の橋ががりは、あの世(死)から、この世(生)の世界への橋を表すのである。川に架けられた橋も来世(彼岸)とこの世(此岸)の橋なのである。この世とあの世とは、一見隔絶しているようではあるが、一定の季節にあの世にいる先祖の霊はこの世にやってくるのである。それが、お正月やお盆である。まさしく『盆と正月が一緒にやって来る』事なのである。
 同時に、インド仏教では、本来悟りを開いた覚者の事を、「ブッタ=ホトケ」を意味したが、日本人は、死者に、インド仏教の【ホトケ】を重ね合わせる様にして、ホトケを死者もしくは、霊魂と解釈したのである。死者をホトケの地位につけることで、有史以来の永遠の謎人間の死と言う命題に、日本人は、死者の鎮魂と滅罪の各種儀礼を模索し実践してきたのである。こうした儀礼を通して、インド仏教の覚者(ホトケ)の事を、日本では、死者や霊魂に対する総称にまで、意味内容を拡大し変化させたのである。まさに、我が国に於ける、仏教の中心概念の変質と受容なのである。民衆は、いかにして死の悲しみからのがれようかと苦しみ、悩み。死の悲しみと恐れは、仏教の極楽のイメージによって多少薄らぐとはいっても、現実にはそこに横たわった死者が厚く葬られてこそ、又死者の霊が、どうなるかを各種宗教的儀礼を通じて得心・納得してきたのである。
 この様に【仏教】の極楽浄土の世界を、日本人は山中にイメージする事に置き換え。【ホトケ】を、死者若しくは霊魂と読み変えたのである。外来の思想や文化である仏教を、日本人は、古来の日本人の霊魂観念と融合、咀嚼(そしゃく)して、巧みな技法と手段によって、見事に受け入れてしまったのである。まさしくそれは、インド人も吃驚(びっくり)するインドの【ホトケ】の概念の日本化にほかならないのである。

  仏教に求めるもの

 日本民族が仏教に積極的に求めたものは、名もない沙弥や聖を通じて、一連の死者儀礼を完結させる事であった。死者儀礼が完結しないことには、親族・縁者にとって人生の責務を果たしていないことを意味すると意識したのである。そして一連の死者儀礼は、あの世における死者の生活、換言すれば霊魂や死霊の運命に関わる事として、受け止め、死者を救済しようとしたものである。そのことを通じて、あとに残された者は人生の喜びと慰めを得たのだと言ってよいのである。その事に深く関わってきたのが、前述した様な、聖(ひじり)と言われる民間僧侶なのである。しかし鎌倉新仏教は、伽藍仏教といわれた旧仏教へのアンチテーゼとして出発し、新鮮さをもって、庶民信仰や庶民の要求に応(こた)えてきた宗派も、次第に教団としての組織化、教理化。開祖や祖師の偶像化がなされるに従い、庶民から遊離し。それとともに、はじめ民間僧だった僧侶も、寺院や伽藍の住職におさまって貴族化する。当初の理想とは裏腹に、旧仏教に追いつき追い越して今や伽藍仏教になってしまつた。

 日本仏教は葬式仏教か?

 好むと好まざるにかかわらず、日本仏教は、ある意味では【葬式仏教】である。そしてこの概念については、現実の僧侶や庶民のおこなっている葬祭中心のいわゆる【葬式仏教】は、本来の仏教の堕落、又は逸脱であると批判的にとらえる見方。そしてもう一方には、むしろ教理や原則よりも、今まで述べたように、仏教が今日の葬祭主導の形態を持ちいたったのは、それなりの仏教の日本的受容の文化性や民俗性に感心をもち、現にある姿を評価しようとする立場である。残念ながらこうした立場の違いを乗り越える努力が、なされていないのが我が教団の現実なのである。
 佐々木宏幹著『聖と呪力の人類学』によれば、人類が、思想的存在=ホモ・サピエンスたる所以(ゆえん)は、目に見えない存在(霊魂・精霊)の認識と、こうした存在が行き住む場所としての『他界・冥界(地獄や極楽)』の発見であり、死者や亡者を単に死せるもの、亡き者と見ず、滅する肉体を越えて存在する人格(霊魂・精霊)ととらえた事であり、現に人間にとってあなどり難い意味と役割を持っている。と述べられている点には、説得力があるのである。
 我が宗派で、霊魂や山中他界などと言い出したらまず相手にされない。しかし一人の死者を救うことは、日本人の霊魂観念をしっかりと認識し。僧侶は民衆を救済する信仰を身につけ、高潔な人格と信念をもち、その方便として、教学や仏教哲学を役立てる努力が必要ではなかろうか。単に、親鸞の教義の解説や解釈・説明をもってあたかもそれが、布教活動と信じたり。玉串訴訟などに見られる庶民の心から遊離した耳触りの良いスローガンだけが先行して。僧侶自らの宗教体験や実践・感動と信念を語る事を忘れている気がするのである。
 仏教の目的は、この世における人間の日々の生活を究極的に意味づけ、導くための思想(信条)と行動の体系である事を心に刻み込み。民衆の救済である。僧侶自ら、自嘲的に仏教を葬式仏教と言う事は、止めなければならないと思うのである。ある意味では、庶民から見れば、僧侶自身が、葬式仏教なんて言うのは、死者を葬りその霊魂を救済する意味をみとめない僧侶が、経済行為を目的に、嫌々ながら葬式をおこなっている事を言っていると、思われるのではないかと危惧を抱くのは、小生だけなのか?

 結論
山号は、日本人の仏教に対する心意及び庶民信仰(先祖崇拝・霊魂観)などに深く結びついたものであり、仏教の日本的展開受容の過程において生み出されて来たものである。

主要参考文献 
 五来  重『日本人の仏教史』
 佐々木宏幹『聖と呪力の人類学』
 阿満利麿 『宗教の力』
 山折哲雄 『仏教信仰の原点』  
 梅原 猛 『あの世と日本人』
            
           
                       前に戻 【「浄信寺通信」】平成13年夏号より】転載